私にとってトラタヌは 動物について考える素晴らしいきっかけになったゲームだ。
私が生まれ育った家にはインコが2羽いた。私が小学生の頃、2羽目のオースケが亡くなってからは、生き物と身近に接した記憶はほぼない。それからは動物の造形に興味があったので動物をモチーフに絵を描くことはよくあったが、特別 好き・嫌いという気持ちは無く、どちらかというと無関心に近かった。
ここ数年で、なんとなく動物園や水族館へ行く機会や、誰かの飼っているペットと触れ合う機会が多くなり、動物をもっと見たい、知りたいという気持ちが強まっていた。そのタイミングでたまたま思いついたゲームがトラタヌであった。
ゲームを作っていくにあたって、ルール以上に世界観は大切なものである。トラタヌは「ハンターが動物を捕まえる」という大雑把な設定を元に製作を始めた。ハンターは我々ゲームを遊ぶプレイヤー自身で、カードの動物は捕らえる対象である。この頃に、ルールの中の「捕獲」「動物園」という言葉も同時に作られた。そして誰が最もポイントの高い動物の群れを捕まえることができるかを競う、という狩りをテーマにしたシンプルな点数比べが出来上がった。おおまかなルールはほぼこの段階で完成しており、現在でも大きくは変わっていない。ただ、世界観はここから大きく変わってゆく。
当初は動物を狩りの対象としてしか扱っていなかった。しかし、実際にカードを作ってそれを並べて遊んでいるうちに「動物を捕まえて得点として扱うこと」がこのゲームの本質でないことに気が付いた。
同じ動物のカードが手札に3枚揃って群れが出来る。また群れが出来る。トラが集まって最高得点だ。我々プレイヤーにとって最もテンションが上がるシーンである。手札に来てくれてありがとう、と自然に動物のカードに対して、いや動物そのものに対して思った。これは無機質なトランプでは味わえない感覚だった。我々は未熟なハンターだ。だが、動物たちと垣根を越えて楽しんで遊ぶことで、互いが互いをもっと好きになれるのではないか。この瞬間、トラタヌの中のハンターという言葉の意味が「動物を狩る者」から「動物と一緒に楽しむ者」へと変わった。
「動物園」という言葉は、動物とヒトが集まって楽しむ園であり、動物たちと過ごす宴であり、集まった動物とのご縁であるという複数の意味から、カタカナで「ドウブツエン」という表記に変えた。そこから、ストーリーやコーリーのエピソードで描いた世界観につながってゆく。トラタヌが完成に近づくにつれて、かつて動物に対してあまり関心がなかった私も、動物が大好きになっていった。そこで、動物に関する世界のニュースや歴史に初めて目が行くようになった。トラタヌの世界のコーリーは、いわゆるトロフィーハンティングを趣味にしていた人物として描いている。ただ、それを悪だ、善だという観点で描いているわけではない。「狩り」はそもそもヒトが生きてゆくために動物の命をいただくための行為であり、現在も伝統的に行っている人たちが存在する。その人たちと、かつてのコーリーとの大きな違いはその命を奪うことに対して敬意を払っているかどうかだろう。コーリーはトラタヌの世界でそれに気づいて考えを変えた。その結果、自分の満足の為だけに行っていたハンティングをやめたのである。
元来、ヒトにとって動物の肉は食糧であり、骨や角や皮は道具となり、一方で動物はパートナーにもなり得た。だから、野生のライオンが野生のシマウマを捕食するように、ヒトがヒトの知恵で動物を捕まえたり育てたりして食べるということは何も悪いことではない。ただ、本能的にエサを食べるライオンに対して、考えることに長けたヒトはその命に感謝するという一行程を踏んでから動物を食べるのだ。パートナーとなった動物に対しては、感謝と愛情をもって接するのだ。その行程があるということ以外、ヒトも他の全ての動物も同じように他の命によって生かされている。しかし今の時代、他の動物を絶やすことも作り出すこともできるくらいに知恵と力をつけたヒトだからこそ、その唯一の工程が欠けてしまうことで問題が生じる。
私も動物が好きになってからは、動物が不当に扱われたり、人間の都合で傷つけられたりというニュースに対し怒りを覚えるようになった。ネットでたくさんの情報を得ることができる時代だからこそ、尚更そんなニュースを目にする機会も多くなる。だが、様々な人間の意図によって正しい情報とそうでない情報が入り混じっているということも知っておかなければならない。
ここで、改めて動物を取り巻く全ての問題を考えてほしい。表面的な偏った情報や、なんとなく「かわいそう」という薄っぺらい感情を一度取り払った上で。そのハンティングに、そのブラッド・スポーツに、その飼育や繁殖に、その産業に、そして周囲の人間に対しても、命への感謝や愛情、敬意は存在しているか。人間の私利私欲のためだけに、必要以上に殺したり増やしたり減らしたり争わせたりして動物の命を弄んでいないか。自分の意見だけが正しいと思い込み、それに対する反対意見を排除したいというだけで「動物を守ろう」と声を荒らげてはいないか。自分の心を満たすことに動物を利用してはいないか。動物について語る以前に、他の人間を傷つけたり不快にさせたりしてはいないか。
私自身で、動物を取り巻くそれぞれの問題に善悪をつけて説教をするつもりはない。どの意見が正しいということでもない。ただ、全ての人間が動物にもヒトにも同じように敬意をもって接することができれば、自ずと減ってゆく文化や産業があるだろうし、増えてゆく活動もあることは間違いないだろう。
トラタヌは、世界中のみんなが動物とヒトについて、自分自身の感覚で考えるためのきっかけになり得ると思う。トラタヌは狩りを推奨しているわけでも、動物愛護の観点で作られたわけでもない。動物に関して、こうしちゃダメだとか、こうしなさいと言うことはない。唯一伝えていることは「一緒に楽しもう」ということである。動物と一緒に楽しむ、誰かと素晴らしい時間を過ごす、こんな気持ちがベースにあれば、たくさんの意見に惑わされることなく自分自身で動物やヒトとの付き合い方を考えられるのではないだろうか。
だからこそ、まずはトラタヌで遊んで欲しい。そしていつか世界中がハンターで溢れたとき、トラタヌで描いた世界は現実になるはずだ。
2018年6月21日 Yuki Kurosawa